山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』を観てきた。
お〜河合優実主演の映画ね
近所のTOHOシネマズでやってたのを観そびれた
で、キネマ旬報シアターでちょうど山中監督の舞台挨拶があり、タイミングよく行けたため話を聴くことができた次第である。
そんなわけで感想などに加え、聞けた話の内容なんかも書き記しておきたい。
※以下、映画の内容に触れているのでご注意ください。
『ナミビアの砂漠』のおおまかなあらすじ
スタンダードサイズの画面が駅を映す。
カメラはジリジリとズームをしていく。思った5倍くらいズームした先にいる、日焼け止めを塗りながらペデストリアンデッキを歩く女性がカナ(河合優実)である。
美容脱毛サロンで働く21歳、世の中と人生へのやり場のない思いを抱え込み、一人のときはナミビアの砂漠のライブカメラ映像を眺め、のべつ幕なしにタバコを吸い、カフェで友人の重めな話を聴いているようで耳に入るノイズのほうに気を取られ、その友人を気晴らしにとホストクラブに連れていくも気が変わって自分は先にぬるっと雑に離脱する。そんな女性である。
そうして会いに行った恋人ハヤシ(金子大地)に花をもらい、散々飲んで恋人ホンダ(寛一郎)の元に帰る。花をホンダに渡して早々にトイレで吐いて介抱される。しかしカナは優しいホンダに飽きつつあり、ハヤシとの中を深めている最中なのである。
ハヤシからホンダとは別れてほしいと切り出され「わかった」と言いつつも、出張から帰ってきたホンダには道端で飛びついて出迎えお土産にご満悦。様子がおかしいホンダに出張先で上司に風俗に行かされてしまったと平謝りされればコレ幸いと別れるイイきっかけとする。そんなわけでカナとハヤシは同棲を開始することになり、デートにてカナは鼻ピアスをあけ、ハヤシはカナがデザインしたカシューナッツもといイルカのタトゥーを彫るのであった。
新生活への期待は儚く、しばらく暮らす中で互いのペースが合わなくなってくる。ある日の喧嘩をきっかけに家を飛び出したカナはアパートの階段から転落し、足を痛め首にコルセットをはめ車椅子生活となってしまう。カナを甲斐甲斐しく世話するハヤシだったが、カナはハヤシを責める想いを募らせる。
回復したある日ホンダに遭遇する。帰ってきてほしいと懇願するホンダに対して「中絶した」と平気でズルい嘘をつく。往来にて、地面に突っ伏して泣きわめくホンダをみて「変な人」と半笑いなカナだったが、なぜか自分も涙が出ていた。
カナはストレスによって徐々に自分をコントロールできなくなりつつある。ハヤシに対する罵り・暴力は激しくなり、取っ組み合っては仲直りを繰り返す。
ある日オンラインで精神科を受診してみるも決定的なことはわからず、カナはカウンセリングを受けてみることにするのであった。
そんな感じ!
『ナミビアの砂漠』の感想
なぞの面白さがある映画であった。
なにこれなにこれ、と思って見入っているうちに不意に終わって「あれ!?」となった次第である。
そういう意味では一見してモヤつく映画かもしれないが、それでもシーンひとつひとつが妙に魅力的だし、反芻してまた楽しめる映画でもある。
画作りがおもしろい
終始カナを観察する映画のようにも思われる。
そういう意味でもまさに冒頭の、駅前を歩くカナへズームインしまくるシーンはとても印象的だ。
ちなみにYouTubeで観た監督のインタビューによると、あのシーンはJR管轄の駅前のエリアにカメラが入れずに、結果としてああいう形になったそうな。結果オーライすぎる…!
また余計な情報になりうる部分を切り取るためにスタンダードサイズの映像を採用しているという。
カナに視線が集中する効果もありそう。そんな作りの部分もあって、冒頭からなんかハッとする感じあるよな〜
そして友人イチカ(新谷ゆづみ)とのカフェシーン、眼の前の友人が語る知り合いの死という重めの話と、他の席の男たちが繰り広げる珍妙なトークが同等の音量でもってカナの耳に入り続ける。このときの完全に話聴いてないカナの顔面がまた最高だったりする(で、またここでの男たちのトークが終盤効いてくるのである)。
ここの音のバランスが絶妙すぎ。にしてもあの「しゃぶしゃぶ」のくだり、30代の筆者からしてもだいぶ上の世代の話だと思うのだが…監督の引き出しおもしろい
ちなみにすでにいろいろなところで監督から語られている通り、今作は別の企画を取りやめてつくることになった山中監督オリジナル作品である。結果的に脚本がない状態で主演することだけ決まっていた河合氏とディスカッションをする運びとなったそうな。で、その対話の中で河合氏が「自分は意外と人の話を聴いてない」と話していたエピソードをこのカフェシーンには反映させたとのこと(と、コレ観たあとのティーチインで監督が仰っていた)。
そんな感じで最序盤から「なにこれなんだコイツ」というフックでもって引き込まれていく。
あと個人的にはいかにもカナがなにか考えているっぽいときにカメラがズームインしていく演出もなんだか愛おしい。
ハヤシの顔面アップからのズームアウトのとこもいいよね〜
終盤のカナとハヤシの取っ組み合いのシーンに関しては「アクションシーンとしてすごくない!?」などと思いながら観ていた筆者である(かなりアクロバティックなのである)。
コレグラファー的な人がついてたりしたのだろうか?気になる…!ハヤシは取っ組み合いの中で絶妙に安全に(?)突き飛ばしてたりして、ふたりともすごいんだよな〜
そして続くランニングマシーンへのまさかの導入には面くらい、カウンセリングからの森の中での焚き火シーンはこれまた素晴らしいのだ。
そんな感じで随所に映像的な見応えありなのである。
カナのストレスと物語のゆくえに戸惑う
どう着地するのか?と思いながら観ていたら、どうなったんだこれ?といったところで映画が終わってしまった。ただそういう話なのだとも思う。
冷静に見るとカナは結構ヤバいやつではあるのだが、筆者はなぜかカナ目線で観がちであった。
カナがヤバいヤツになってしまうときにそのきっかけとなるストレス要因が示されていたりもして、「あ、こっちから出てきちゃった」みたいなハラハラがあった。だからほんのり擁護するような目線もあったのかもしれない。
なので「ホンダな〜」とか「おいハヤシ!」みたいな気持ちで観がちであったのだが、やはり冷静にカナもなかなかやばいと、振り返って思わずにはいられない。ストレスが幾度も入っては噴出していかにも限界じゃなかろうかというところで、ホンダに嘘をつきカナは大きく崩れていったように見えた。
その後カウンセリングへ赴き少しずつ回復するその過程の描写が不思議ではありつつ説得力もまた感じられるのも見どころである。カウンセラー葉山(渋谷采郁)との対話や、隣人遠山(唐田えりか)との束の間の邂逅に、ここまでのストレスが剥がれてやすらぐ心持ちであった。
ラストはある出来事でカナとハヤシの目線がようやくフラットに交わるのだが、ここで改めて二人の関係を築くためのスタートに立てたのかもしれない、なんてことを思った次第である。
答えは明示されないけど、ここに至る過程が破格に面白いんだよな〜
キネマ旬報シアターでのティーチインイベントに参加した【質疑を紹介】
この日、山中瑶子監督による舞台挨拶と、観客からの質疑という内容のイベントが行われた。
非常に興味深く、映画を補完する内容も聴くことができた。
ざっくりだがメモれた範囲で紹介してみたい。
挨拶
まず最初の挨拶では、すでに多くの媒体で語られている「山中監督と河合氏の邂逅エピソード」と、「今作がオリジナル作品になった経緯」が語られた。
Q.唯一カナが映っていないカット(ハヤシのバックショット)の意図は?
A.もともと脚本の上では二人の男の単独のカットもあったが、映画製作の制約の中で削られていった。カナに振り回される人がいることを伝えたかった。セオリーではないかもしれない。ハヤシに関しては、カナから離れるべき時間があってそんなハヤシを見つめるシーンを入れたかった。
Q.描写の積み重ねは計算している?
A.「している」と言いたい!自分なりのつながりの意図はあるけど、努力してそれを正確に伝えようとはしないことにしている。カメラマンとだけは共有している。綿密にやっているが、(伝えることに)こだわってるわけではない。また編集作業が映画を作る中で一番好き。
Q.脚本上で人物像を作り込んでいる?
A.脚本上はあくまでもアクションとセリフのみ。ただ画面上での人物描写はこだわっている。
Q.インスピレーションの源は?
A.ときどきによる。創るにあたってやりたいことのストックはなく、都度無理やりだしている。ただ意識的に見つけに行くこともする。今回はインドに行ったのがすごく良かった。そこでもとの企画を降りる決意ができた。カッコつける意味の無さを実感して素直に動けた。ものすごくうるさい国で人の存在感もうるさい。全然一人になれない、放っておいてくれない。そんな経験が出ている。ナミビアの砂漠では東京の情報量と物質量とうるささ、都市的な、資本主義的なうるささとしてアウトプットしてある。インドにて見えてきた東京の気分?も反映されているかな?と思っている。 あとはネタを探すためにその目で映画館で映画を見る。小説も読む。ナミビアの砂漠で参考にしたのは金原ひとみ氏の小説。当時、ショーン・ベイカーのレッドロケットが公開され、それを観て「これだ」と思って書いたり、短期的に集中して入れたものすべてを取り込むぞと思って書かないと書けない。経験からというのも少しある。目に見える形で書き出して勢いよく捨てていく。
Q.河合氏とディスカッションを重ねたとあるが、どんな感じだった?
A.本来脚本を用意しておくのがマナーだと思っているのだが、「企画が変わって脚本がまだありません」の謝罪・報告のために最初に河合さんと会った。身の回りのことをざっくばらんに話した。二人ともミックスルーツでその話をしたり「所在がない感じがあるよね」「『日本人として』という枕詞がぴんとこない」とか。アイデンティティが異なる、揺らぎが大きい、とかそんな話をした。 自分の嫌なところがあるかと聞いたら「人の話を聞いてないことがある」とか。冒頭のカフェのシーンはその要素を取り入れた。
Q.最後に中国語が出てきたのはなぜ?
A.映画の最後に外国語を使いたかった。それはなぜかというと、カナとハヤシは喧嘩して会話が噛み合っていない。だから取っ組み合いしていた。ふたりともわからない言葉を聞くってことでフェアになれるのでは、というのがあった。中国語じゃなくてもいいんだけど、母が中国の人で、私もコントロールできるため中国語にした。
Q.カナ以外の女性キャラクターについて
A.後輩(倉田萌衣)は、かつてのカナ像というか、カナよりあっけらかんとした存在とカナが出会う、ということを入れたかった。自分より下の世代のことがすでにわからないことを数年感じていた。たくさん話を聞いて執筆に活かした。カナにとっての年下を描きたかった。隣人はカナが混沌としてどんずまってる時期に会う、未来のカナとしてあり得る存在。そういう色んな年代の女性の連なりを描きたかった。
Q.「今後の目標は生存」というセリフについて
A.「生存」は思った以上に反響が大きいセリフだった。あれは実は冒頭のカフェの男たちの雑談に出てきた。音量はかなりぎりぎりにしていたから気づかない人もいるかもしれない。あれはカナから出てきた言葉ではなく、どっかで聞いた言葉を言ってただけ。あのときのカナも芝居がかっていた。ただカナにも実感もあるとは思う。以前もサインをかいてるときに「これからは生存だと思います」って話をされた。で、そうなんだ、と。不思議な話。なんの気なしにいれたらかなりビビッドに感じている人が多くて逆に驚いている。とんでもない時代。
Q.あみこも拝見したが、変化を感じた。心情などどう変わったか?
A.あみこは19歳のときに撮っていて、19歳は本当になにもわかっていない。だからこそ大胆なことを大胆と思わずにできていた。聞いた話だと30歳以降は人は変わりづらいから、変わっておかなきゃというのがあった。つまりおとなになった。 心情はまるくなった。当時はなにもわかっていなかったのに人間不信・閉じていた。映画だけが世界と接続するコミュニケーションだったのではじけていたけど。今のほうがオープンな感じにあると思う。 あみこ以降も短編は撮っててどれも違う。矢崎仁司監督に「毎回観客を裏切ろうとしても矢崎さんの映画だね、となる。だから好きなことをやったらいい」、と言われてそれを意識している。
そんな感じ!(メモをミスってたらすいません状態)
山中監督はやわらかなキャラクターで語り口も面白かった次第である。
おわりに
ということで『ナミビアの砂漠』を観た!というはなしであった。
不思議な魅力に満ちた素晴らしい作品であった…!
いろんな楽しみ方ができそうだとも思われる。気になったら是非観てみていただきたい。
また直前におなじくキネマ旬報シアターにて上映中となっていた山中監督が19歳のときに撮った『あみこ』を観てから臨んだわけだが、そちらは初期衝動に基づく無闇な熱量がありとても面白い中編の映画であった。
そちらについても感想などを書き記したので是非読んでみていただきたい。
河合氏が高校のときに観て山中監督に手紙出したエピソードでおなじみの『あみこ』も必見…!